色んなデータ置き場。

概要

性的少数者に関して思った事を適当に書く。
いちおう当事者の端くれであり、最低限の事は知ってるつもりだが、それ以上の知識には疎い部分もあるという事は正直に書いておく。


性自認

性自認とは、自分の性別をどう認識しているか、という事だ。

まず最初に、自分の性自認について書いておく。
自分は「体は男、心は男寄りのXジェンダー」という認識でいる。
(Xジェンダーとは、男女のいずれにも当てはまらないという性自認)
ただ基本的には、男と言っていいだろう。

自分語り(そうなった経緯)

フェミニズム(特に急進的ジェンダーフリー論)とLGBTQ(特にトランスジェンダー)の矛盾

ジェンダーフリーというのは、性役割(ジェンダー)から解放(フリー)されて、性別無関係な社会にしようという発想である。
近年のフェミニズムは統一性が全くないが、それでもこの発想はフェミニズムの中心的位置に存在するはずだ。
特に急進的なものは、男女の違いはすべて社会が作ったものである、とまで考えている。

トランスジェンダーというのは、体と心の性が異なる人の事を指す(現在は異なる定義となっているがあえてこう書く)。
典型的には、幼少時の遊びが極度に異性的であったりする(自然と異性の集まりに参加して遊ぶ)。
心の性は出生時には判別不可能だが、先天的なものだとする考え方が前提にある。
後天的なものだとすれば、矯正可能な疾患とみなす事も可能になるはずだが、それは許さないだろう。

この二者は、原理的に正反対の主張をしている。
ジェンダーフリーは先天的な性別を否定している。トランスジェンダーは先天的な性別を前提としている。
ジェンダ―フリーは心の性を否定している。トランスジェンダーは心の性を前提としている。
ところがこの二者は一般的には、弱者保護的な観点から近い思想だと考えられ、現実に政治にまで影響を与えている。

整理した方がいいんじゃないかなあ、と常々思うのだ。
ハリー・ポッターシリーズの著者、J.K.ローリングがフェミニズムにして反トランスみたいな言動をとって度々話題になったが、更衣室だの浴場だの現実的問題はそれはそれで問題だが、本来はそれも末節の話題であり、全体に整合性を取った方がいいように思える。
私は言うまでもなく、先天的な性別、心の性は存在していると考える。
だからジェンダーフリーは迷信だと考える。
男女は違う。しかし差別を肯定するわけではない。そもそも性別に限らず、人はみんな違う。
違いを認め、多様性を認め、それでいて機会平等は実現しましょう、というのが現代社会の理念のはずだ。

近年はフェミニズムは右派に近づいていると言われる。
様々な見方があるが、性的少数者と対立関係になるのは自然な事と思われる。

身体の性別を忘れる事はまだできない

トランスジェンダーの話をする時、性別をどう記述するか、という話題がよく出てくる。
心の性が女であれば女と記述し、女子スポーツにも出場できるのか?とか。

この時、トランスジェンダー側の主張として「自認の性で統一せよ」というのがよく出てくるのが、自分には不思議に思われる。
自分自身が「トランスジェンダーではないか?」と真剣に(重要)悩んだ時、どうあがいても現在の技術では完全な性転換は不可能、という現実に直面した。
いくら「心の性は女」と主張しようと「体の性は男」という現実は覆しようがないので、そこにどう折り合いをつけるか?という事こそ、トランスジェンダーの悩みではないのか。
手術や薬で女に近づく事はできるが、副作用として男にも女にもない問題が発生したりする。それを受け入れるかどうかも含めて、大きな悩みになるはずである。

身体の性に一番苦しんでるのは、他ならぬトランスジェンダーのはずだ。
完全な性転換手術が確立されるまでは、身体の性を忘れる事はできない。
だから「心の性で統一せよ」というのは、現実感がない。
願望としては理解できるが、願望だけの主張をしても現実的救いがないように思われる。
もちろん理解も得られない。ポリティカル・コレクトネスで反論を防いでごりおしするだけである。

MtF(男トランス女)のレズは都合がよすぎる?

スポーツ選手にちょくちょく出てきて話題になっているが、そうでなくても自称「MtFのレズ」は増えているそうだ。
心の性が優先されるなら、女風呂も女子更衣室も入れて女好きのままでいられるのだから、非常に都合のいい話である。
私もトランスジェンダーかどうか悩んだ時、性指向は女性なので「じゃあ、俺はトランスジェンダーのレズなのか?都合がよすぎる」と考え、トランスジェンダーではないという結論を出す一因になった。

しかし、都合がいいからといって非現実的、と即座に考えるのは不誠実。
単純に確率でいってもトランスの確率×レズの確率で存在するはずだし、トランスが特殊である事を考えるともっと高い確率かもしれない(低い確率かもしれない)。

ただ問題は「都合がよすぎる」その一点なのだ。
私は「都合がよすぎるから違う」としたが、逆に「都合がいいからそういう事にしとく」と考える人は当然いるだろう。
これを排除する努力をしなければ、疑いの目で見られるのは必然だと考えられる。

とりあえずここまで

思った事を連ねたので、オチとかはなし。
また追加するかもしれません。

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